シャトー・ラトゥール

学生の時に教材で読まされた行きずりの文章が案外長いこと記憶に残っていたりする。

大学の2年か3年の時、英語の担当は小柄で物静かな助教授だった。彼の授業を選んだのは単にスケジュールの都合がよかったからだった。言い訳がさせてもらえるなら、私がいたのは少人数の必修授業が後期まで詰まっていて、30名ほどのクラスからも毎年の進級試験で必ず数名が落とされる慣習の大学だった。当初こそ受けたい授業がいろいろ浮かんだものの、この頃になるととりあえず必要な単位を確実に確保しておきたいという気分になっていた。専攻外言語で言えば、本当は同じ時間に隣の棟で開かれていたスペイン語の授業を受けてみたかったけれど、知らない言語を1から学ぶよりも、多少なりともストッ クのある英語のほうが堅実ではないか、というほうに結局流れたのだ。

授業の教材は2編覚えている。1編は戯曲だった。イギリスの避暑地にある小さなホテルが舞台で、老人たちが何組か滞在している。頑固でくせのある彼らの相手をしながら日々働いているホテルの女主人のもとに、ある時男が訪ねてくる。彼女のかつての恋人らしいことがわかる。
女主人の、肩までで髪を切りそろえた、すらりとした立ち姿を私は印象に遺しているが、それは作品の中の描写にあったものか、私が描いたイメージに過ぎないのか、確信がない。
滞在客たちは多くが長期利用者で、自分の好みの保存食を用意している。自家製のピクルスとか。朝食の席にはその瓶を持ってきてテーブルに置いたりする。その授業以降、ピクルスはいつも私にその光景を思い出させた。

2編目はこれもイギリスのものと思われるミステリーだった。成り上がりの富豪の家で殺人事件が起こる、ありふれた古典的な設定だが、名前の知れた探偵が出てきた記憶はない。成り上がりの常として、邸宅には高価なワインを買い占めてある。食卓を囲みながら、主は来客の前で延々とワインの講釈を述べるシーンがある。そのワインの知識にも関わらず、着飾った娘たちのちょっとした言葉遣いから、彼らに欠けている教養や気品が冷たく浮かび上がるようになっている。

 

そのシーンの後、来週は必ず出席することをおすすめします、と助教授は冗談めかして言った。翌週顔を出した教授は、手提げのショッピングバッグから荷物を取り出して教卓に並べた。2本のワインの瓶とプラスチックのカップの包みだった。
シャトー・ラトゥールとシャトー・ラフィット・ロートシルト。成り上がりの富豪の食卓にのぼった2種類だった。
「もちろん年代は全然違いますよ。僕の給料で買うんですから」
助教授は、それも量販店でできるだけ安いのを探した、と付け足しながら、何故かちょっと照れたようにもぞもぞした。それからプラスチックのカップの包装を開けて、ワインの栓を抜くと、「もってけドロボウですな。好きなほうをどうぞ」と腰を下ろした。
いくら最安値を 探し出したとしても、国立大の助教授には高級品であり、まして学生の私たちに手の出るようなものではないことは確かだった。私たちは戸惑いながら、やがて遠慮がちに、順番に席を立って教卓に行き、落とさないようにこわごわワインを注いだ。その間中、教授はテキストに目を落として知らん顔をしていた。

プラスチックカップ入りのワインを机に置いてちょっとずつ舐めながら、その日も物語の続きを読んだ。
私が注いだのは確かシャトー・ラトゥールのほうだったと思う。途中で、隣に座っていた男子学生が、それどっち、と訊いてきた。私が答えると、じゃあ交換しようよ、と言って、私たちはカップを交換した。年代物の校舎の外で夕日が沈んで、夜に変わっていった。

コップに半分かそれ以下ほどのワインの味は、もう残っていない。ただ、薄暗い教室でかすれた活字の脇にあった深いワインの色と、その時聴いていた助教授のおっとりした声の響きは、今でも一組になって思い出す。

 

 

May,2013

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