ヤスタカ君の思い出

大学の終わりから、4年ほど塾の講師をしていた。田舎ののんびりしたところだ。保護者が英語を気にし始める小学校高学年から高校生までを受け持った。
少子化で学校を統合してしまったので、学区が広い。中学生はほとんどが自転車で通学していた。
部活を終えて塾に来るので、帰りは遅い時間になる。おなかをすかせた彼らのために、キャンディやクッキーを少しばかり用意しておく。疲れてくる頃合いに私がキャンディの籠を持ち出すと、生意気盛りの彼らは急におとなしくなって、神妙にキャンディを受け取り、「どうもありがとう」と言うのだった。
田舎の午後8時、9時は通りを歩く人影もほとんどない。授業が終わると、彼らの何人かは私に断り、塾の電話を使って家に迎えを頼んだ。その小さな町で中学生が携帯を持つようになるのはあと何年もしてからだった。
その日、中学1年のヤスタカ君が「先生、電話貸してください」と言ったのは9時過ぎだったと思う。私は「どうぞ」と言って、まだ残っている受験生につきあいながら、ヤスタカ君が受話器を取るのを視界の端に捉えていた。
もしもし、じいちゃん?とヤスタカ君の声がした。
関係代名詞に苦労する中学3年の女の子のプリントを採点してやりながら、聞くともなく耳に入ってくるヤスタカ君の声が、急に動揺しはじめた。
「おれだよ、おれだってばじいちゃん」
振り向くと、ヤスタカ君は泣きそうになって「おれだよ」と繰り返していた。
「どうしたの?」と見かねて声をかけると、彼は落ち着かない様子で受話器を置いた。
「じいちゃんが、おれって誰だって」
それでだいたい事情がわかった。孫を装った電話の詐欺師にお金を払ってしまう老人の被害が増えていることがTVで取り上げられるようになったころだった。
ヤスタカ君の祖父もそれを見ていたのだろう。そんな折に、自分の孫が不用意な電話をかけてきた。
共働きの彼の父母に頼まれて塾の送り迎えを引き受けているものの、晩酌も我慢して孫の電話を待ちくたびれたところ、覚えたての護身術を披露がてら、ちょっとからかってやろうという気を起こしたのだと思う。
ただ、ヤスタカ君は、祖父の期待に反して、祖父の応答を真に受けてしまった。いつも大人を困らせている腕白な少年は、「ヤスタカ」という一言、聞き慣れた自分の名前を失ってしまった。
期待に反してまともな応答ができない孫に何度か誰何を重ね、祖父はついに面倒くさくなって電話を切ってしまったのだろう。
ヤスタカ君はすっかりおとなしくなって、ぼんやり窓の外を眺めていた。こみ上げる笑いをこらえながら、私は授業を続けた。
数分して 、窓のむこうにトラックのタイヤが砂利を踏む音がした。ヤスタカ君が小さな声で「さよなら」と言って駆け出していった。
窓に寄ると、何度か見たことのある軽トラックから老人が降りてきて、自分より大柄なヤスタカ君を自転車ごとさっさとトラックに積み込み、去っていくところだった。
成績はけっしてよくないのに私に懐いていたヤスタカ君のことを思い出すたびに、彼の、あの祖父とのやりとりがおかしくて、私は一人でくすくす笑った。
そしてある時、胸の奥を何かがかすかに締め付けた。安心しきっていた小さな世界で、もっとも身近な人が自分を認識してくれなくなる。「おまえは誰だ」という問い、ヤスタカ君をあの日襲った恐怖は、存在の根源的な不安だったのかもしれない。
生まれ育った揺り籠で寝息を立てていられた時間は、彼の場合、きっとあの日を境に終わりに近づいていったのだ。

 

 

September,2014

 

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